ドイツで人生変わって帰ってきました

ドイツ、顔ヨガ、ゲーム、ボードゲーム、スピリチュアル

ドイツに行くことになった理由

私が30歳のころ、息子は3歳になり幼稚園に入園しました。

私がドイツと縁ができたとハッキリわかるのはこの時からでした。

 

そこは今は形を変えて存在しますが、当時は珍しい取り組みをされている幼稚園でした。山のほうに敷地があり、頑張って毎日通っていました。

 

そこに同じ学年にドイツ人の親子が入園してきました。他の幼稚園の見学の時にもその親子を見たことがあったので覚えていました。

彼女はご主人の仕事の都合で来日しており、日本語がわからない子供達の為に、この幼稚園に入園したと言っていました。英語が堪能で、博識で、子供たちのこともどっしり構えて見守り、子育て上手な印象でした。

ご主人の方は不機嫌そうなイメージのドイツ人らしくなく、見るからに穏やかそうな、優しい方でした。お母さんと対照的に子供にやや翻弄されるような感じです。

 

幼稚園のお遊戯の時に、その子は最初は絶対参加しませんでした。でもドイツ人母はそれでOK、無理にさせる必要なし!しかし、たまたまドイツ人父が来た日は「走ろうよ!参加しようよ!」ってちょっと強引にさせようとして号泣されてドイツ人父、困惑…

教育関係のお仕事なのでよく子供のことを視ておられるし、子供に話するときには目線を合わせてじっくり話すいいお父さんでしたね。ドイツ人は相手と話すとき、例え子供相手であっても目線を大事にします。本当に見習うべきところです。

 

「犬と子供のしつけはドイツ人にさせろ」

という諺もあるそうなので納得です。

 

在園中、私はこの幼稚園に毎日通い、他のお母さんたちと色々なお話をしました。海外に意識が向いている方も多かったのですが、私は全く考えておらず、家も購入してましたし、そこで一生暮らすつもりでした。

 

しかし、主人は違いました。今もエンジニアをしていますが、勤勉で当時いた会社でも海外勤務を希望したいと言っていました。

 

私はもちろん、反対しました。

とんでもない!両親はどうするの?家は?子供たちの学校は?言葉だってあなたしか英語が話せないのに?

それを幼稚園のお母さんたちに聞いてもらっていました。彼女たちは特にアドバイスをしてくれたわけでもなく、ただ聞いてもらっているだけだったような気がします。それまでに主人は転職をしており、転職自体には反対ではなかったのです。しかし、とにかく言葉も通じない国に行くなんて…と不安で不安で仕方なかった。

 

それが、主人の仕事に対して日々勉強している姿と英語への真面目な取り組みを見て、幼稚園のお母さんたちに話を聞いてもらっているうちになぜか気持ちが変わっていきました。

 

そして主人の事なので詳しくは割愛しますが、どうしても海外勤務したいという主人の熱意と行動力に海外の会社に転職、いう道を選びました。

 

「やりたいことはできる限りやって死のう!死ぬ間際に『海外で仕事したかったなぁ』って言われるの嫌」

とそのころには私はよく言っていました。

 

これを言うと「かっこいい」「理解ある奥さん」とか言われますが、私はなぜかこういう時大変な方を選びます。そのほうが成長できるかなと思うんで。まぁすぐ泣き言言うし、へこたれるし、文句も言うんですけど、家族が離れて暮らすことだけは全く考えていませんでした。

 

そして決まったのがドイツの会社だったのです。

 

それからはとても忙しくなりました。

 

子供たちの英語の予防接種の証明書とか、下の子は心臓に小さな穴が開いていたので、病院で英語の証明書を書いてもらったり、家を売る準備をしたり、ドイツ語を少しでも覚えようと家族で習ったり、両親親戚に報告したり、息子の小学校に成績表を出してもらったり、友人に報告したら送別会をしてくれたり、順不同ですがもっともっとあって本当に忙しかった。

 

転職ですからもしかしたら日本にもう住まないかもと思って、ドイツの小学校に入れることも考えていました。どこら辺に住むと治安も良いのか、学校が言葉のケアをしてくれるのか、毎日毎日ネットでの検索が止まりませんでした。

 

とにかく渡独の費用としばらくの住まいは会社が用意してくれる、インターナショナルスクールに入れる場合も月500ユーロ援助してくれる、という事でした。

すっごい羽振り良いな~と思っていました。給料も悪くないし。

 

こうして怒涛のような2014年の春、両親と友人たちに別れを告げ、家族四人での奮闘がドイツのフランクフルトで始まったのでした。